08/11/2019
携帯を誰かに盗まれてから、すっかり更新する気を失くしたこのブログを放置して、もうすぐ一年が経とうとしていた
相変わらず訳もわからず悲しい日というのは訪れる
丁寧な暮らしなんてものには程遠い、昼夜逆転生活の方が多いし、昨日もスパゲティを暴食してしまった
他人の感情に左右されて、一日中寝込むことだってある
それでもこの前初めて一人旅を敢行した際に、とある港街でどうしようもなくフィッシュバーガーが食べたくなり、街一番のフィッシュバーガー屋さんを調べ、赴き、「フィッシュバーガーください!」と注文した瞬間、途方もない自由を感じた
そして強風の中、淡白な白身魚とあまりピクルスが効いていないのっぺりとしたタルタルソースを咀嚼しながら、わたしは自己決定というものを実感していた
それは紛れもなく大人になったわたしの特権で自由だった
遡ること8年前、14歳の私は漠然と20歳になる前に自分は死んでいるだろうと思っていた
ある種の希死念慮に取り憑かれていたのかもしれない
若しくは少女という甘美な響きに憧れて、大人への抵抗としての自殺を夢見ていたのかもしれない
どちらにせよ私は大人にならないつもりだった(ちなみにその時の私の大人の定義はハタチから)
実際、14歳から数年続けていたブログにはそういった旨の意思表示があったし、決意はわりに固かった、はず
でも、私はまだ生きている
14歳の私が想像した大人として、私はまだ生き永らえているのだ
正直、20歳を超えた時は20歳としての実感が沸かず(私の中でお酒もタバコも20歳を象徴するものとして機能していなかった)、ただ記号とした時に見たその数字に愕然とした
成人式は欠席したので思い出話に花咲かすことなく、自分の中で20歳であるということを消化するのに1年を要し、そうしていたら21歳になっていたし、先月誕生日を迎えてもう一つ歳を取った
これは未だに良いことなのか悪いことなのか分からないけど、大人になってから感受性が鈍くなった気がするし、あれだけ憎くて忘れてやるものかと思ったあの子のフルネームや恥ずかしかった出来事を忘れた
後者はまぁ、いい
問題は前者で、たとえば季節の変わり目のにおいにいちいち心を揺さぶれて泣くことがなくなったし、毎日流れる悲惨なニュースに感情移入し過ぎて学校に行けなくなる、ということもなくなった
確かに少し楽な生き方が出来るようになったのかもしれない、けど、わたしはあの窮屈で泥の中を縫って息をしていた日々を愛していた
ゆえにちょっとさみしい、し惜しい気がしている
でも同時にこれで良いんだとも思っている
良し悪しは置いておいて、私は私の生きやすい道をちゃんと模索してきたのかもしれないから
そういえば前『アメリ』に憧れて、好きなこと/もの・嫌いなこと/ものをリスト化していたのだけれど、あのメモ用紙はどこにしまったっけ
最近、追加したい好きなことが増えたので記しておく
「一日の終わりに明日の話をすること」