ブエノスアイレスと彼、そしてロンドンにて

2019年の春、ティハニという町に向かう途中で、わたしは香港出身の男性と出会った。名前はホー。彼は香港の銀行に勤めているが、長期休暇を取ってヨーロッパを旅行していた。同じアジア人同士ということもあり、わたしとホーはすぐに打ち解けて、道中を共にすることとなった。会話の内容はもっぱら記憶にも残らないような他愛もない話だったが、わたしが映画好きということもあり、香港出身の映画監督、ウォン・カーウァイの話を切り出した。すると、彼はウォン・カーウァイの大ファンだという。そして、一番のお気に入りは『ブエノスアイレス』だと教えてくれた。『ブエノスアイレス』は男性同士の恋愛模様を描いた作品である。当時のわたしはストーリーの大筋は知っていたものの、全編を通して観たことが無かったので、「絶対観るね」と約束をしてこの話を終えた。これがわたしの『ブエノスアイレス』を巡る冒険の幕開けだった。すぐにサブスクで見つかるかなと思っていたけれど、どこにもない。違法アップロードされているものを見つけたけれど、字幕が無い。帰国後、近所のDVDレンタル屋を回ったけれど、取り扱いが無い。AmazonでDVDが販売されていることは知っていたけれど、わざわざ購入するほどの執着は無い。そのまま月日は経って、わたしはほとんどホーとの約束を忘れかけていた。

 

2023年の冬、わたしはようやく『ブエノスアイレス』と邂逅を果たす。いつの間にやら、U-NEXTが『ブエノスアイレス』の配信をしていたのだ。わたしは興奮しながら再生ボタンを押した。初っ端から主演2人の生々しいセックスシーンが映る。そうして、ウォン・カーウァイ映画の特徴ともいえる大胆な色使い、繰り返し流れるテーマソング、細切れに挟まれる叙情的なシーンに呑み込まれる。まさに渦の中。挙げ句、観客に答えを委ねるかの様なエンディングの中に放り出され、わたしは暫し呆然とした。はた、とホーのことを思い出す。何故彼はこの作品を一番のお気に入りと告げたのだろう。居ても立っても居られなくなったわたしは久しぶりにInstagramを開き、彼のアカウントを探した。

 

久しぶりのチャットで、ホーは元気そうに見えた。わたしは嬉しくなって、『ブエノスアイレス』の話をする。そして、率直にこの映画が好きな理由は何?と疑問をぶつけた。以下、彼の回答。

f:id:yumemimic:20230202020417j:image

2019年の春に出会ったホーは、明るく、穏やかな笑みを讃えている人だったと記憶していたけど、彼は胸中に苦しみを抱えて、それらを清算するかのように故郷を離れて旅をしていたのだった。そんな彼が今、“now I have changed, more happy and self-caring” と言っている。わたしはなんだか堪らない気持ちになって、目の端に涙が滲んだ。彼は今ロンドンにいると言う。投稿されているポストには、彼と、彼のフィアンセが仲睦まじくロンドンの街の中にいた。いいね!ボタンを押す。心底いいね!、と思いながら、いいね!したのは初めてだ。かくして、わたしの『ブエノスアイレス』を巡る冒険は、豪華にも後日談を携えて終焉を迎えたのだった。

 

In memory of Ho back then.